シーラカンスが地上に出る日を目指して

人生絶望から希望を見いだす中年おじさんのブログ。いくつになっても、「生きづらい」。

「死にたい」という気持ちについて

■「死にたい」とは「助けて」なのか?

私は心の奥底に「死にたい」という気持ちがあります。消えてなくなりたい。。

自分には価値がないんじゃないか、と常に思ってます。ですので、組織人だったときは、常に周りに迎合するような対応をしてました。

「〇〇(自分の名前)はだれとでもうまくやるよな」と言われてました。そりゃ、常に自分を押し殺し、相手を機嫌をとり、合わせてれば、相手は気分良くなるよなと思います。そんなことを繰り返してれば、自分は疲弊していく。心を「無」にすれば、なんとかやりすごせると思って、過ごしてました。

すべて、頼まれた仕事も完璧にやってました。やりたくもないことも。それが仕事なのは分かりますが、つらくて仕方がなかった。

嫌いな相手にも常に迎合し、なんとかうまくやってきた。そういう自分が嫌いで仕方なかった。「大人の自分」より「子供の自分」を優先したかった。

自分を押し殺しすぎると、最後は「死にたい」という気持ちにつながるのではないかという結論になった。

今も、「死にたい」。私の気持ちが分かる最高の人間が表れて、助けてくれるんじゃないかと淡い期待がある、そうしたら、死にたい気持ちも少し少なくなるのかも。

いいおっさんが何言ってんだか。だれか、「助けて」。

■本当に自殺してしまう人について

「死にたい」と思っている人は、かなり多いらしい。人口にして、何百万人とも。

私のような気持の人も少ないのかも。

本当に死んでしまう人は「衝動的」に死んでしまうという。特にお酒を飲んだときに、理性がなくなって衝動的に自殺を図るらしい。

気持ちは痛いほど分かるが、明日、少し良くなるかも。気分が晴れるかもしれないよ。

あなたの気持ちが分かる人が現れて、もしかしたら、助けてくれるかも。助けてくれるというより、共有できれば、救われれるかも。

自分は置いといて、他人は死んでほしくない。

もしかしたら、自分は、自分と同じような人と寄り添い、救いたいのかも、というか、自分も救われたいのかも。

「かも」が多いね、まぁいいか。

また、自分の気持ち、書きます。またね。